君は日本を誇れるか「⑤合理主義は文化を破壊する」

⑤合理主義は文化を破壊する
押印は意思を担保するものである。押印をする際、朱肉を付けて、曲がらないように向きを確認し、下敷きを敷いて、ぶれないように力を込めて判子を捺す。そのような手間を掛けて作成した書類と、単なるプリントアウトしただけの書類では、何かが違うと思わないだろうか。また、押印する瞬間に、本当にそれでよいか、もう一度考え直す機会にもなる。 私が初めて判子を作ったのは14歳の時だった。当時、印鑑登録できる年齢の下限が14歳であり、誕生日のあと直ぐ実印を登録した。印鑑鑑定士の先生といろいろお話させて頂き、実印は均衛の取れた運勢の強い印章を、銀行印は金運に特化した印章を作って頂き、それを30年以上使ってきた。十年程前には蔵書印と天覧印まで作成した。蔵書印は、我が家の本棚の一員となった本に捺す印で、天覧印は天皇陛下に差し上げた文の写しや、天覧に供した書籍の副本に捺す印である。それ以外にも用途に応じて複数の認印や落款を使い分けている。
判子を長年使っていると、象牙に印泥が染み込んで良い風合いを醸し出している。この実印で契約すると裏切られる気がしないし、この口座の残高が減る気もしない。そして、結婚届にもそんな気持ちで押印したことを覚えている。
「押印廃止」というのは至極合理的な考えだと思う。だが、一見合理的な考えには、予想外の落とし穴が隠れている場合もある。人間は不完全であるから、最善の策を思いついても、そこには何らかの見落としがあると不安な気持ちを抱くのが賢い人間の心理である。
かの孔子ですら、70歳になってようやく「心の欲する所に従って矩を超えず(自分の心のままに行動しても人道を踏み外す事がなくなった)」と述べている。まして、孔子でもない一介の大臣が、しかもまだ70歳にも達していない若者が、千年以上親しまれてきた判子文化に手を付けることに畏怖の念を感じないとしたら、その資格はない。皇統の原理も然りである。
文化に合理主義のメスを入れると、文化という文化はことごとく破壊される。今は判子業界が悲鳴を上げているだけで、他の業界は対岸の火事だと思っている様子だが、一旦この流れを許したら、あらゆる日本文化が侵食されるだろう。判子問題は、保守全体で立ち向かっていかなければいけない。合理主義の行く末は天皇の廃止である。

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