君は日本を誇れるか「②欧米人も羨む便利な判子」

②欧米人も羨む便利な判子
判子のある社会に生きていると、判子の便利さが当たり前になってしまっていて、現代日本人はその価値が分からなくなってしまっているように思う。
例えば、箸の便利さは、箸を使わない西洋に住んでみて初めて実感できる。平皿にへばり付いたレタスをフォークで剥がして食べようとした時、箸があったら便利だと思うものである。
判子よりサインの方が便利だと思う者は、サイン社会の不便さを知らない者である。もし、契約者や社内の決裁文書などを判子からサインに変更すると、とても不便になることは間違いない。私は香港をはじめ海外に数社の会社を持っているが、決算では50カ所以上の署名をする必要があり、相当の苦痛を強いられる。また、海外の会社では、決算以外でも頻繁に署名を求められ,その度に判子の便利さを実感させられてきたものである。
それに、何十回もサインをしていると、最初と最後ではサイン自体がだいぶ変わってきてしまう。それは、後に本当の署名であるかを検証する際の妨げとなる可能性もある。
また、印鑑を偽造しようとすると大がかりだが、サインの偽造は真似して書くだけであるから心理的ハードルが低い。また、日本の刑法では無印文書より有印文書の偽造の方が罪が重いため、その点でもサイン偽造の心理的ハードルは低い。
そして、印鑑証明通りの印影であるかは素人でも判別可能だが、サインの場合で疑義が生じたら、個人で判断するのは困難であり、毎回筆跡鑑定を雇う必要がある。
それに、日本では判子を渡す事自体、委任があったものと推定されるため、委任状や印鑑証明なくして代理人に意思表示を委ねることが可能である。
たとえば、実印を預けることで、日常の決済は総務担当者に委ねることができる。その他にも、家族に通帳と印鑑を預ければ、委任状がなくても銀行から現金を引き出すことができる。
もし判子が廃止されたら、代理人が署名するに際して、その人物が代理権を持っていることを証明するために、毎回委任状を作成・交付する必要があり、また、その委任状も判子もなく認証する方法は煩雑である。
判子の便利さは、印鑑登録制度を外して語ることはできない、判子は自分のオリジナルマークであり、それを政府機関に登録することができるというのは、欧米人が聞いたら、その先進的な制度に驚くという。
欧州にはシーリングの文化があり、家や個人のオリジナル。ロゴマークとして用いられているが、政府機関にそのデザインを登録できる国などない。
たとえば米国でサインを登録できる制度がないため、本人の署名であることを証明するには、わざわざ公証人に認証してもらう必要がある。具体的には、署名に公証人に立ち会ってもらう必要があるため、煩雑かつ相当の費用を要する。日本では印鑑登録制度があるため、印鑑証明を添付するだけで、本人の印鑑であることを証明することができるのは、実に便利な制度なのである。
欧米のサイン社会は、日本より進んでいるのではなく、実際はその逆で、日本の方が遙かに進んでいたのである。

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